宋王朝における交子・会子などの初現について

    よく言われる、宋代の紙幣の誕生についての

    よりふかい理解へ

 宋代における、約束手形(紙幣)の誕生において、もっとも最たる形として表れているのは、塩鈔と茶引であると思われます。

 教科書にも、中国において紙幣が誕生したのは宋代であり、それは、交子、会子とよばれた、などと記述されてはいます。ただ、よりふかく捉えるのであれば、紙幣と簡単に解釈するのは早合点で、その点では、西欧でもかなり早い時期から約束手形が開発されていますし、これはどう見ても、約束手形と扱われるべきものなのです…。

 たとえば、国家権力と、商人とが存在するとしましょう。塩鈔の場合には、塩の産地において、塩鈔という約束手形を、塩との交換に使います。また、茶引の場合には、茶の産地において、茶引という約束手形を、茶との交換に使います。そして、国家権力は、この塩鈔とか茶引とかを正式に作成し、流通させる権利をもっていました。

 大量の塩や茶が、約束手形をつかってダイレクトに商品化され、それは大槽運(大規模運河の利用)などにより、中国中に流通化されました。されに注目されるべきは、この塩鈔だとか茶引だとかは、首都開封府へ最終的に荷物が到着した時に、証券として開封府に蓄積されて行きました。すこしややこしいかもしれませんが、たとえば、銭引という約束手形を考えてみましょう。これは字の通り、ダイレクトに、銅銭などの銭貨を交換できる約束手形です。この銭引というのもまた、政府が公式に作成した、国家お墨付きの約束手形です。つまり大雑把にいえば、商人は、塩が欲しいときは塩鈔、茶が欲しいときは茶引、銭貨が必要な時は銭引を、それぞれその所有者と交換します。確認ですが、これらの鈔や引は、あくまで基本的には国家作成の手形です。

 そして、中国国内の商業ネットワークを通じて、最終的に、銭貨と、鈔・引などの約束手形の配分が、必然的に前者は商人の使いまわしのいいように、後者は首都開封府に証券として蓄積されて行くという仕組みです。発行部数などへの考慮も要りますが、厳密に行って、紙幣というよりは、約束手形と把握するのが適切です…。



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