はじめに ― フランク時代の時代構成 ―
フランク時代は、一連のゲルマン民族移動の中で、古代ガリア地域に、ゲルマン族の一派フランク人が入植、あるいは進出した結果として生まれました。
初期、西ゴート人のかげにかくれていたフランク族は、クローヴィス王権の時代から、次第に勢力をもつようになったと考えられます。。
フランク史は、中世前期の時期に相当するとされますが、社会的には、セナトール貴族によるガロ-ローマ社会支配時代からの逸脱、在地貴族層による王権の整理などがあげられます。初期のフランク族の入植の際には、ガリア地域は当時のローマ貴族によって政治的なやりとりが行なわれていました。フランク族は在地のローマ貴族と政治的な折版を行いながら、ガリア地方に定住していきました。宗教的にも、フランク族は当初アリウス派という異端だったので、在地のカトリック化されたガリア文化に浸透するまでには時間がかかりました。
フランク族は、クローヴィスの洗礼によって、大掛かりにカトリック化されたと認識されています。それまでのフランク族は、在地のガリア住民からは、まだまだ異端として認識されていたと考えられます。クローヴィスの洗礼によって、フランク族は正式にカトリックとなりました。ここからは、フランク族がいかにカトリック教会に貢献していくのかという状況となります…。
ピピンの寄進に代表されるように、フランク族は次第に、ローマカトリックの新しい守護者として認識されるようになります。ゲルマン族の大移動というものは、比較的緩やかに進行したのですが、フランク族に関しては、ゲルマン諸族の民族移動の西端付近に位置していたため、今日のフランスの領域とほぼおなじ領域に、ドイツとイタリアの一部の領域が重なった区域に王権として確立していくことになります。
メロヴィング朝の時代においてすでにフランク王国はローマカトリック教会との結びつきをある程度確固たるものにしていきました。ピピンの寄進もそうですが、フランク王国の指導者は、ローマカトリック教会の政治的要求をつねに配慮し、のちに西ローマ帝国の後継として認識されるような、カトリック教会の守護者としての位置づけを固めていきました。
第一章 フランク王国と中世前期の欧州社会
フランク王権領域内における、社会の在り方というのは、そこに暮らしている農民たちと、在地貴族層、それに、初期の商業活動がどの程度まで成長していたかに、その原因究明を担っているでしょう。
フランク王権は、その領域内の農民層にたいして、どのような支配形態をとったのかと問われれば、この点についての歴史的研究は、まだまだ考慮の余地があるといわざるを得ません。税収ならびに社会の封建制度化は、この時点ではまだまだ未知の領域だと考えてよいでしょう。
そもそもフランク王権が、どのようにして王国の支配体制を確立したかは、在地貴族層の領主的権力の集約体としてのフランク王権と考えられてはいます。しかし、在地貴族層がおのおのの領地でどのような農民支配を行っていたかに関しては、研究の余地が残っています。税収はどうなのか、武力的な封建支配はどうなのかなど、誕生したての在地貴族層による王国支配体制の中では、高度な農業生産の蓄積による強力な支配は、期待できないと考えられます。
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