はじめに ― 中世前期とはどう把握されるべきか ―
中世前期において、欧州世界は、フランク王国の三大分離から、周囲の異質的社会組織との領域的区分けの中で、大まかに西ローマ帝国の領域と類似した地域体としてその姿を見せ始めました。
5 世紀から 10 世紀ごろと考えられるこの時代区分におけるヨーロッパ社会は、まだまだ寒冷な気候で、農業の大幅な成長は見込めなかったようです。当初のフランク族などは、農業生産物を大量に生産できるすべを持たなかったため、畜産による食物補給が主体であったと考えられます。
二圃制などは導入されていたが、中世前期はおもに寒冷な気候に代表されます。中世盛期の温暖期とくらべて、農作物の生産向上はあまり見込めません。したがって、人口増も生じにくく、それまでローマ人が支配していたガロ-ローマ地域にゲルマン諸族が移住したものの、本来の意味での中世ヨーロッパ世界の誕生までには、まだまだ時間がかかることになります。
中世前期のおおきな政治史的うごきとしては、フランク王国とローマカトリック教会の絆の成長があげられます。中世盛期にローマカトリック教会が諸王国と政治的駆け引きを行う現象は、それまでの流れの中では、そもそもフランク王国がローマカトリック教会の正式な守護者としての立場を確固たるものにしていくという、中世前期の基盤のうえに成立していると認識する必要があります。中世前期においては、誕生したてのローマカトリック教会勢力と、おなじく誕生して間もないフランク王権が、相互の利益獲得のために、政治的に絆を深めたと理解すべきであります。当時はまだ強大だったビザンツ帝国との政治的バランスのためにも、両者の歩み寄りは必然だったと言えます。
ビザンツ帝国は、ギリシア正教である。ローマ司教から派生した教皇勢力は、カトリックです。その違いが、教皇をして、フランク王権を利用しての、キリスト教主派としての権力確立に進ませたと考えるのは妥当だと言えます。カトリック教会は、西欧各地に成立しつつあった修道院システムの頂点に位置づけられたヴァチカン教皇という、一連のテオクラシーの原型を形作りつつありましたが、その初期の動きに、フランク王権が一役買っていたことは言うまでもありません。
- 中世前期の諸地域は、政治的に、それとも経済的に
分類されるべきか
中世前期においては、急速にカトリック教会との関係を深めながら成長を続けるフランク王国が、ヨーロッパの主役でした。フランク王権は、王が擁立されて行くたびに、王国国家としてのまとまりを強くしていきました。
フランク王権の勢力範囲は、今日のフランス領域と、ドイツ、イタリアの一部の領域からなります。しかしこれは、当時のヨーロッパで最も強大な王権でした。フランク王国以東のドイツ地域やフランク王国以南のイタリアの諸侯国は、フランク王国に比べれば、支配領域は格段に小さかったのです。
フランク王国は、何度も分割支配を経験しています。そのたびに、周囲の諸侯国と政治的駆け引きを余儀なくされました。その意味では、寒冷で農作物の収穫量が急増を見込めない中世前期では、中世盛期に代表される大規模な農・商業の拡充は期待できません。そのため、各支配主権体の政治的な行動が、中世前期のヨーロッパ社会の領域的分類を体現していると考えていいでしょう。ただ、中世前期において、完全に農業・商業活動がとん挫していると考えるのは早急です。二圃制に代表される初期の農業成長はある程度確実に存在していたし、物々交換が主流とはいえ、ヒトとモノの経済的交流もある程度存在していました。そのような、生まれたての農業・商業活動を基盤として、中世前期の西欧諸侯国の政治的活動が行われていたことは間違いありません。
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