イタリア戦争時代の欧州…。(その二)
この記事では、15 ~ 16 世紀における欧州紛争すなわちイタリア戦争の内、皇帝選挙の結果、膨大な勢力圏を得ることになったハプスブルク家と、これに脅威を感じたフランスヴァロワ家が、イタリアだけでなくすべての国境で対峙することになる、イタリア戦争後半期について考えてみたいと思います。前半期については、別記事「イタリア戦争時代の欧州(その一)」に記載があるので、興味のある方は、読んでみてください…。
さて、イタリア戦争の前半期が終わって、つかの間の平和が訪れていたころ、神聖ローマ皇帝であり、60 歳にちかづいた老皇帝マクシミリアンの後継者問題がヨーロッパ中の耳目を集めることになってきました…。
ところが神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンの死去に伴っての後継者争いでフランソワは破れ、ハプスブルク家のカール5世が新皇帝となります。強力なハプスブルク家との対立は全面的なものになりました。1521 年、軍事衝突はネーデルラント国境、ピレネー国境、さらにイタリアでつぎつぎにはじまりました。戦況はフランスに不利で、1524 年あらたに軍を編成しミラノ奪回に向いますが、1525 年2 月、パヴィアの戦いで大敗北を喫し、フランソワ1世は捕虜となり、1年以上マドリードに幽閉される王国危機を迎えてしまいました。1526 年 1 月、屈辱的なマドリード条約に署名し、ミラノの放棄、フランドル、アルトワの宗主権を皇帝に譲渡すること、ブルボン公シャルルの名誉回復など多くの譲歩をよぎなくされます。
1527 年戦闘が再開しました…。フランスはミラノをふたたび落とし、ナポリにもせまりましたが、ジェノヴァの艦隊をひきいてフランス側にあったアンドレア・ドリアが皇帝側に寝返ったため、フランス軍はナポリの囲みを解いて、退去するのをよぎなくされます。1529 年、カンブレの和議(別名、貴婦人の和議)が結ばれ、ブルゴーニュをフランスに残すとしたうえで、マドリード条約が再確認されました…。このあと表面上は七年間の平和がありますが、ヨーロッパでの覇権をめぐるフランスと、ハプスブルク側の冷戦状態が続きます…。1535 年ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァが後嗣のないままに死んだとき、フランソワ1世は自分の王子に公位を要求しました。これがうけいれられなかったのをきっかけに、皇帝側についたサヴォワ公との戦闘が始まり、双方の戦争は再開しました…(1536 年 2 月)。皇帝軍はプロヴァンス、ピカルディと南と北からフランスに侵入しました。双方とも十分な戦闘をなしえないなか、教皇は、機をみて斡旋に乗り出しました。トルコの脅威に対してキリスト教勢力の結束をはかるべく、10 年間の休戦協定を認めさせました(1538 年 6 月)。しかしつかのまで、1540 年 10 月皇帝が王子フェリペにミラノを与えたのを不満としたフランス王は 42 年 7 月ふたたび戦闘に入りました…。ルシヨン、ネーデルラント、ロレーヌ、イタリアと多くの戦線で戦闘が行われました。1544 年、フランス軍はピエモンテで大勝しましたが、逆にシャンパーニュ地方でやぶれ、結局アルトワの和議が成立しました。(1546 年 6 月)これにはイギリス軍との戦闘が要因ともなっています…。翌年、フランソワ1世は、ヘンリ8世にわずかに遅れて、53 歳で世を去りました…。
フランソワ1世のあとをついだアンリ2世はカール5世との争いでも父を継承しました。彼は皇帝とドイツのプロテスタント諸侯の争いを利用して、後者と 1552 年 1 月、ロッシャウ条約を結びました…。この条約によってフランス王は諸侯軍に援助金をあたえるかわりに、帝国内のメッス、トゥール、ヴェルダンの3都市を帝国の大官として占拠する許可を得て、ドイツ内に兵をすすめ、3都市を占拠しました…。ドイツへの散歩ともいわれましたが、フランスとプロテスタント諸侯のあいだに実質的同盟が結ばれたのはこれがはじめてでした…。1552 年 10 ~ 12 月にかけて皇帝はメッスを囲み奪回をはかりましたが失敗して退去し、この時、皇帝カール5世は大きなショックを受け、みずからの政治的不首尾をさとり、引退を決意したと想像されるそうです…。
イタリア方面ではフランスの援助をあてにするシエナの要請で開戦(1552 年 7 月)、途中、休戦をはさんで、3年間戦闘が継続しましたが、ここではスペイン軍の優勢に終わったようです。1556 年、ナポリの副王アルバ公が教皇領に侵入し、教皇がフランスに助けをもとめて、ナポリでの2年半の戦闘が起きました…。司令官は戦闘を有利に進め、ナポリ王国に侵入しましたが、本国の北部の都市サン-カンタンが攻囲されたために呼び戻されました。サン-カンタンは攻め落とされはしましたが、この司令官は秘密裏にカレー攻撃を準備し、急襲に成功(1558 年 1 月)、対等の条件で和議に向うことを可能にしました。
この結果、1559 年 4 月、カトー-カンブレジ条約によって、久しく続いたイタリア戦争にもようやく終止符が打たれました…。戦争の両当事者はともに経済的にひっ迫し、これ以上の戦争は不可能で、国内の宗教問題のためにも和議を望んだとのことです…。
(引用:世界歴史体系フランス史2 山川出版社 1996, 第2章 ルネサンスと宗教改革 2 イタリア戦争と国際関係…石引正志氏… )
条約によってフランスはコルシカ、サヴォワ、ピエモンテを放棄し、サン-カンタンと国境のいくつかの場所を取り戻しました…。カレーは8年間、保持したあと 50 万エキュで買い取ることとされ、メッス、トゥール、ヴェルダンについてはふれられずにフランスが占拠したままでした…。スペインの手中にあるミラノやナポリについてはもはやなにもふれられませんでした…。両国の絆を強めるためにフェリペ2世とアンリ2世の娘エリザベート、サヴォワ公とアンリ2世の娘マルグリットの2つの結婚も定められました…。6月の2つの婚儀のさい、アンリ2世は騎馬試合の傷がもとで命を落としてしまいます…。
イタリア戦争は、中世と近世の分かれ目と考えることもできるそうです…。イタリアとしては、ルネサンス時代には先進国でしたが、政治・社会的には立ち遅れた状態になってしまうとのこと…。
政治局面としては、このイタリア戦争後半期においては、ヴァロワ家とハプスブルク家という2大勢力の一騎打ちの状況になったことが重要といえます。最終的に和議で戦争は終わっていますが、このイタリア戦争の時点で、フランス王朝とハプスブルク家という2大勢力の対立構図というのが鮮明にあらわれ、のちの 30 年戦争などでも、それは繰り返されると考えてよさそうです。ある程度ナショナルなかたちをとりつつあった当時の欧州政治勢力は、まずこのイタリア戦争をもって、大規模国際紛争への道を歩んでいったと、把握していいかと思いました…。
コメント