唐代都市坊制度における、市や店の誕生…。

    唐代都市坊制度において、その形態たる

    「市」と、その商業体たる「店」は

    どのように初現したのかについて…。

 唐代都市坊城システムについては、別記事、「唐代における、「坊」制度の誕生…。」ですでに書きました…。大都市は格子状に大街とよばれる大通りが存在し、その一方で、大街に囲まれた方形の区画「坊」では、夜明け日没までを開門とした、坊制度がとられたという内容です…。

 そもそも、大都市における商業区域は、「市」と定められ、これは首都長安であってもかわりません…。特定の坊がこの市区にあてられました…。市区は一坊や一坊半、あるいは二坊があてられ、また都市内に二つあるいはそれ以上の市区が設けられていたそうですが、二市の例がもっとも多かったようです…。長安も、二市制ですよね…。

 唐の城・坊・市制度は、前代隋までの城・里・市制度をほぼそのまま受け継いでいたと考えられています…。指定商業区としての市の施設は肆(舗)、店(そのおおきなものは邸とも呼ばれる)、市署を三大要素としていました…。肆(舗)は顧客を相手に商品を販売する小売業者でした。店すなわち邸あるいは「邸店」と把握される大規模な店舗は、宿泊・倉庫・食飲の三業を兼営し、市区を囲む市壁に沿って開設されており、市区管轄の市署は、市区の中心部に置かれ、商品販売をおこなう肆舗は市署の外側から邸店の内側にいたる広い地域に設けられていました。

 つまり市署を囲んでそのまわりに肆舗が展開し、市壁に沿う邸店が肆舗を外から囲む形態をとっていたと、考えられます…。

 外来の商人は、まず宿泊とその商品の保管所、すなわち邸店をもとめて落ち着き、その際邸店が市壁に沿って列をなしていれば便利だったと考えられます。運んできた大量の商品を卸売りする商人(客商)は、宿泊先の地で買い手の肆舗を探さなければならないはずですが、客商のこの要求に応じて買い手の肆舗を斡旋するのは、「牙人」と呼ばれたそうです…。客商は、牙人の斡旋した肆舗の商人すなわち小売業者を飲食業者である邸店あるいは料亭、すなわち「旗亭」に招待して、宴席を設けて商談をするというのがもっとも一般的な形態だったそうです…。

 引用は、日野開三郎氏東洋史学論集第七巻、宋代の貨幣と経済(下), 第二部第一章Ⅱ, 市制の中の行より、です…。日野氏はおおくの著作があり内容も充実していますが、わたくしは薄学なので、日野氏の引用をもとに、今回の、坊制における「市」と「店」の概要を行ってみました…。

 都市制度が発達を見たのは、首都長安だけではないことを、上掲記の日野氏の論述からうかがい知ることができます…。日野氏の記述によれば、複数県をまとめる大都市の存在した州の数は、時代によって増減がありましたが三百数十州だとされています…。場面によっては首都長安の巨大性のみがクローズアップされることもありますが、日野氏の論述からは、唐王朝時期における坊制の発達と「市」や「店」などの誕生の過程が中国全般においてどうだったのかという点が読み取れることが重要だと認識していいでしょう。その州の総数と照らし合わせて、当時の中国の都市形成の形態が考察されるべきだと、日野氏の作品を読んだわたしには思えました…。


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