唐宋時代における荘園制

    唐代から宋代にかけての

    荘園制の存在と成り立ちについての小考…。

 荘園制は、ヨーロッパ、中国、日本などにおいて、その歴史的存在を示しました。この記事では、中国における荘園制にふれたいと思いますが、中国荘園制の研究はふるくからなされているようです…。

 荘園制研究について、周藤吉之氏の「中國土地制度史研究」 (1954 年 9 月 30 日初版, 東大出版会, )がありますが、わたしの薄学では、全体を把握することがむずかしく、該当書籍における、二、唐末五代の荘園制と、六、宋代荘園制の発達の二つの、結語の部分を引用することで、わたしなりに、唐宋時代の荘園制の概要を確認してみたいと思います。

 唐では、荘園制は唐初より随時発達していたようですが、中頃均田制の崩壊に伴って、貴族すなわち王公百官の荘園がすこぶる発達したそうです…。安史の乱以後は、武人のちからが強くなって、彼らの荘園が発達したようです…。

 唐が滅亡し、五代の時代になると、節度使体制による武人政治がおこなわれました。五代には武人がおおく荘園をもっており、唐の滅亡とともに従来の貴族の荘園はほとんど没落して、五代の官僚はおおくが地方の豪民(地主)から出てきたようです…。

 五代十国時代ともいわれる五代の時代とは、西暦 907 年~ 960 年だとされています。唐が滅んでから、趙匡胤が宋を建国したまでの期間です…。907 年に唐末の哀帝から朱全忠が禅譲を受けて、国号を「梁」としましたが、中華分裂期の始まりです…。

 五代期の豪民(地主)は、各地の節度使につかえて武人となり、雑務をつかさどったりあるいはその幕僚となって、おおきな勢力を得て、そのなかには節度使となり、あるいは中央の要職となり、幕僚の中には宰相になるものもあって、かれらの荘園がますます発展したとのことです…。宋初になって武人政治がやめられ、武人体制が解体されると、かれらは宋の官僚層となって、政権を握ることとなり、官戸形勢戸となって、その荘園がすこぶる発展するに至ったとのこと…。形勢戸というのはすでに唐の時代から、権勢のある家とでもいうような意味合いで使われていたそうですが、五代になると、形勢戸は権勢のある官僚・武人、あとにはこれらにつかえる豪民もさすようになり、宋初に武人体制が解体されると、これは官戸形勢戸といわれて、官戸や豪民をさすことになったとのこと、です。(周藤氏の上掲記書籍、二、唐末五代の荘園制, 四 結語, より…)

 宋の時代になると、各地方の豪族があたらしく官僚すなわち官戸として台頭してきました。かれら形勢戸は荘園をもっていました。宋代には荘園制は普遍化するに至ったようです…。

 寺院も大土地所有をおこないましたが、寺院の荘園では官僚の税収にかかわるものが重要とされたようです。商人も外国貿易や内地商業によって巨利をえると、荘園を買い入れ、その子孫で官僚になるものがいたようです。宮廷にも御庄といわれる荘園がおおく設置されていたとのこと…。

 荘園の内部においては生産手段や生産用具がそなえられ、耕作人がいました。荘園の管理人は耕作者たる佃戸(半自由小作人。奴隷ではない。一定の自主権をもちます。)から租課(つまり年貢のようなものです)を徴収して、これを荘園におさめ、もちぬしたる主家に代わって政府に租税をおさめ、自己の報酬を得ました…。宋代の荘園は村落や小都市としても発達したそうです。当時荘園は一村落をなしていることがおおかったようです。おおきな荘園の場合は多くの村落を包含しているものもあったそうです。これらの荘園のなかには商業が盛んにおこなわれるようになって、鎮とか市に発達したものもあったそうです…。(周藤氏の上掲記書籍、六、宋代荘園制の発達, 九 結語, より…)

 こうしてみると、荘園は、唐の時代の貴族荘園、五代の武人荘園、宋代の官戸形勢戸荘園というように随時発達をとげ、宋の時代においてはそれまでと比較してかなり大規模な荘園が現われ、それは鎮や市などのような、商業都市的な存在に発達し得たと解釈できます…。

 周藤氏は同書籍で、耕作人側の、佃戸すなわち半自由農民(小作農)についても記述なされていますが、この記事ではおもに、荘園制の存在形式を、記述してみました。ヨーロッパや日本など、荘園制が成立した社会は中国の外にもありますが、あくまでも、国内における中国の荘園制研究というのは、周藤氏もふくめてある程度の業績をのこしており、その基本的な把握が、中国社会経済史の概括には不可欠だと思われます…。この時代は中国の中世期にあたると考えてよいでしょう。大土地所有制という、歴史学の一テーマを読み解くうえで、周藤氏の研究はおおきな功績をあげたようです…。




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