近世ヨーロッパの社会像
ルネサンスから近世に入り、多くの王朝が、それまでの中世的王権の枠組みから、中央集権的な、近世王権システムへの変容を見ました。英仏王朝や、神聖ローマ帝国ハプスブルグ家のように、中央集権化は、ゆるやかに開始されたと考えられます。
フランス王国のヴァロワ朝が、百年戦争に終止を打ったのち、西欧政治システムは変容し、ヴァロワ王朝は、イタリアに向けて対外戦争を開始します。これはイタリア戦争ですが、70 年ほど続いたイタリア戦争において、ローマ教皇領を中心に、フランス王国、神聖ローマ帝国、それにスペインも加わり、大規模な欧州国際戦争へと発展しました。イタリア戦争と、のちの30 年戦争は、セットで考えられることが出来そうです。
30 年戦争においては、おもにフランスと神聖ローマ帝国との宗教摩擦により泥沼の宗教戦争となりましたが、イタリア戦争においては、戦闘はやや小規模で、イタリアを戦場としはしましたが、戦闘の苛烈さについては、30 年戦争ほどは、クローズアップされっていません。これは、戦場となった地域における、イタリア住民への略奪行為や残忍な行為が、30 年戦争における戦場住民へのそれと比べ、少なかったように歴史研究されているためです。
とはいえ、各国の軍隊は、イタリア戦争においてはある程度大規模な、近世戦闘としての様を呈し、イタリア住民は大いにその弊害を受けたでしょう。当時のイタリアの政治主権体は、都市国家性を導入しており、それ以外の各国が、イタリアにおける各都市国家と、それと繋がるローマ教皇領の覇権とに、それぞれの思惑を混ぜ合わせながら戦闘に及びました。有名なレオナルド・ダ・ヴィンチが、イタリア国内を転々とし、最後フランス王国領内に落ち着いたのも、そのためと考えられます。
イタリア戦争により、ヨーロッパ政治システムは、
あたらしい時代に入ったか。
イタリア戦争は、中世末期の百年戦争と比べ、より、近世ヨーロッパの政治システムに近い利権争いと言えます。百年戦争が、フランス王国におけるヴァロワ朝前半期の国際戦争なら、イタリア戦争は、ヴァロワ朝中後期における国際戦争だと言えます。神聖ローマ帝国とスペイン勢力が加わり、政治覇権闘争の要は、まだまだ権威の強いローマ教皇領でした。ヴァチカンは蹂躙されませんでしたが、イタリア中の都市国家が、その政治闘争のあおりを受けました。イタリア都市国家がどれだけ商業的におおきな力を持っていたにせよ、王権国家のほうが力があったのは否めず、犠牲者数などはともあれ、国際色豊かな戦争になりました。
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