西欧中世の農村

          西欧中世の農村…。

近年、西欧中世都市学界においては、都市と農村を厳密な基準で区別し、両者を対立的に捉える従来の見解が批判・検討されてきています。

農村的色彩の強い地域の都市現象が解明されるにつれて、これまでの都市研究が、大都市・中都市に偏っていたとの指摘も出てきました。

このような「都市と農村」関係の研究状況をベルギー学界についてみると、2つの視覚が交差しているようだとされます。1つは各集落のもつ都市的・農村的性格の濃淡が指摘されてきたことから、都市概念を規定する指標を再検討する方向であり、ほかは、都市と農村の親近性が認識される中で、両者間の具体的連鎖の在り方を究明しようとする方向だとされています。(引用:西欧中世における都市=農村関係の研究 森本芳樹編著 九州大学出版会 1988, Ⅴ 12 ・ 13 世紀エノー伯領における都市と農村 斎藤絅子 1. 問題の所在)

農村の共同体がいつ成立したかをめぐっては、活発な論争がなされてきました。中世前期の農村にもさまざまな共同性が存在していたことは確かだとされています。たとえば、『サリカ法典』は、居住者の居住が認められるかどうかについて、村人の合意を重視しているようです。しかし通説は本格的な農村共同体の成立時期を、10 ~ 11 世紀にもとめているようです。その論拠としてしばしばあげられるのが、集村化、教区網の整備、一円的な領主裁判制の形成です。

農村の地縁共同体を考えるさいには、まず居住形態が問題になるとのことで、中世初期のガリアでは散居居住もしくは小村集落が支配的でした。しかし中世盛期にはロワールの北および地中海沿岸のおおくの地方で集居集落が増大したそうです…。原因としては、人口増加、防衛の必要、牧畜の後退と農耕の発展などが考えられます…。領主との関係を規定する慣習法が、対象とする領民を教区単位で規定していたとされます。ただし、あえて教区民としての宗教的活動と区別された農村共同体のおもな活動をあげるとすれば、防衛、共有地管理、耕作強制をともなう三圃性の実施と共同放牧、公共土木事業、世俗的祝祭、領主たちとの関係の調整ということになるだろうと、考えられています。住民が共同体を構成していることは、たとえなんら法的文書がなくても自明の事実だったようです。

12 、13 世紀には多くの農村共同体が、法的な輪郭を獲得したとされます。まずいくらかの村は明確な自治体資格を認められ、北東フランスではコミューン資格を認められた村や、自治権を公認する内容の法的特許状を与えられた村が拡大したとされています…。

(引用:世界歴史体系フランス史1, 山川出版社 1995, 第八章 中世の社会 ― 家族・共同体・身分 江川温著)

ようするに、西欧中世の農村は、地域共同体として、領主層から法的支配を受けながらも、自立した農村共同体として存在していたと捉えていいでしょう。都市から一方的に法的支配がかかるということは、とくに考えなくて、よさそうです…。都市と農村は有機的に結びついており、農村が都市領主層の法的支配を受けるのは、部分的だったようです…。


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