宋代における荘園制の発達と
その状況…。
宋代社会史を読み解くうえで、周藤吉之氏の研究をおろそかにすることは出来ません。周藤氏は、戦後の日本の中国史学会において、主に唐宋時代の社会経済史を中心に、研究を重ねられました。
ここでは、周藤氏の作品、「中國土地制度史研究」を読み解くことで、周藤氏の活躍された時代において、どのような中国社会経済史研究が行わていたかを、読んでいこうと思います。
周藤氏が研究なされた、「佃戸」なるものの
把握…。
中国における大土地所有制、あるいは、もっと端的に言えば、荘園制において、「佃戸」なるものは、半分独立した世帯であり、また、もう半分は、地主層に管理された、半奴隷のようなかたちで把握されています。しかし、周藤氏が記述しているように、ここで奴隷という表現を使うのはあまり適切ではなく、佃戸は、地主に収穫のうちの租を上納すれば、独立自由を認められる農民として把握されています…。また、移動の自由に関しては、佃戸は主戸(地主)に隷属していて、自由に離脱できないようにしていたと述べられています。
地主は佃戸に飢饉の年には食料を貸し、そうでなくても春夏のころには佃戸が食料に困るので、食料を貸しつけ、秋にこれに利息を附して返還させたと述べられています。また、住宅を貸し、種子・牛具を貸すこともあったとしています。このように佃戸は一般に地主に経済的に依存していたので、地主と佃戸との社会的地位は対等ではなく、奴隷持ち主と奴隷とのあいだほどではなかったけれども、これに近いものであり、一般に主従の関係のように見なされていたそうです。周藤氏によれば、佃戸は大土地所有と深い関係を持っているので、それを度外視することは出来ないとしています。
宋代荘園制の発達について…。
周藤氏は、荘園制は、漢代以後生じたが、唐の均田制の崩壊後特に発達したものだとしています。当時荘(庄)は野・園・別業・山居などとも呼ばれ、元来貴族の別荘を指し、それは城内と城外にあったけれども、城外にあるものには広大な田園が付属していたようで、そこで貴族の田園をも荘といったようです。これらの荘園はむろん貴族ばかりでなく、寺院や官にも所有されていたとされています。一般に荘園内には主人のいる荘院とこれを耕作している荘客または客戸の客坊があり、これを管理する荘吏・監荘もおかれていたようです…。
周藤氏の、佃戸ならびに荘園制研究は重厚で、とても簡単には言い表せません。そもそも周藤氏の前の研究において、唐宋時代の社会経済史研究に始まりが打たれていたこともあり、周藤氏は、大土地所有制すなわち荘園制と、半農奴的な小作農、佃戸の解釈に関しては、おおはばに研究を進展させられたように見受けられます…。
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