唐王朝の税制と経済
唐王朝において、当初租庸調により税収が行なわれていたことは広く知られています。安史の乱をさかいに、それは両税法へと変わります。
租庸調は、丁、すなわち一家の主を対象に賦税されていました。それが、両税法になって、戸、すなわち家族体一つ一つへの賦税へと変わります。
安史の乱前後から、逃戸、すなわち自分の持分の土地から逃げ出すものや、流民が増えて行きました。この社会不安の主原因については、まだ解明されていませんが、国家は国民の税収単位の丁、すなわち家長の数を把握するのが難しくなったと考えられます。そのため、両税法即ち戸を中心とした税収に変化したのですが、安史の乱前後では、戸籍調査を行っても、安史の乱以前よりも戸籍が激減していたため、必要な数の戸数が把握できず、両税法は有名無実の存在でスタートしたと考えられます…。
両税法を考案したのは、楊炎という官僚ですが、かれが両税法を採用した際、国の戸数は 900 万程から 300 万程へと激減していました。これは当時の戸籍調査からもあきらかで、実質的に両税法により必要な戸数から賦税するのは困難でした。そのため、逃戸や流民をある程度戸籍上に反映させようとしましたが、それでも戸数の激減は免れなかったようです。
安史の乱により、唐王朝は一時王都からの離脱を余儀なくされ、王朝の統治領域は大きく混乱しました。穀物や茶、国の銭貨や紙幣を運ぶ大運河も、主要な働きを失っていました。安史の乱が収束するまで、両税法により正常な形で賦税を行うのが困難でした。両税は、夏税と秋税という、農作物の二つの収穫期に合わせて設定されていましたが、おそらく、安史の乱の混乱で、税収はほとんど目途が立たず、唐王朝の混乱は計り知れないものがありました。
安史の乱収束に合わせての税収の正常化
安史の乱が収まってからは、国の大動脈である大運河も、乱以前の働きを取り戻し、唐王朝はある程度立ち直ったと言われています。しかし、乱以前の本来の姿に戻ったかと言えば、そうではなかったようです。戸数は決してもとには戻らず、租庸調制度が正常に機能していたころの大きな税収は、復活しませんでした。それは、宋王朝の誕生まで待たねばなりません。
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