唐代安史の乱の混乱における、漕運(大運河使用)における弊害…。

   唐王朝における漕運は、安史の乱により

    多大な影響を受けたとの把握…。

日野開三郎博士は、その東洋史学論集第3巻(唐代両税法の研究 全編、三、粛・代二朝の大漕運と転運使)にて、唐王朝時期の安史の乱における、中国内運河輸送のおおきな混乱と、唐王朝の危機的状況について、詳細に述べられており、ここで、その研究を見直してみたいと思います…。

 中華王朝の財政を圧迫し破綻させているものは、そのほとんどが北方軍備費であると考えてよいでしょう。汴河路が、大運河としては国家の大動脈であり、安史の乱により汴河路が使用できなくなって、唐王朝は危機に見舞われます…。

安史の乱の勃発後、唐王朝の最大財源地帯をなしていた河北・河南は一挙にその地位を失いました。特に被害の甚だしかったのは、官軍と賊軍の争奪の中心となった洛陽・長安とこの両地を結ぶ黄河沿いのいわゆる中原の地でした。

財力を消耗した唐王朝は、とおく淮南・江南の両道以外に、財源・食料補給の地域がない状況になったと考えられます。

汴河から黄河の流域一帯が、安史の乱の交戦地域になっていて、王朝側が、江淮の物資を関中に輸送する幹線漕路として使用できるのは揚子江・漢水をめぐる水路になりました。汴河運河の輸送量は大きく、揚子江・漢水の運河の輸送量だけでは当時の唐王朝が必須支配地域としていたエリアの財源・食料補給は困難な状況になってしまいました…。

 つまり、関中すなわち長安を中心とした王朝の政治的主体エリアは、汴河の使用不可によって、次第に窮迫されていき、最後に王朝の秩序の破綻すら考えさせる心配があったというのです…。

ここで、すこし内容を確認しましょう。まず、汴河とは、隋の煬帝が開いた、黄河と淮河を結ぶ運河です。のちの宋王朝は、物資補給問題の反省点を踏まえ、この汴河と、京杭大運河すなわち、上記までの運河のメインライン、隋の文帝と煬帝が築き上げた、北京から杭州までをむすぶ主要運河の接点に近い汴京(開封)に首都を置きました…。

京杭大運河が使えないことにより、揚子江と、漢水すなわち漢江(長江の最大の支流)のふたつが、王朝側の補給の主要経路となります。ところが、揚子江と漢江の漕運の物資ははなはだしく貨幣的物品にかたよっていたとされるのです。ここで、貨幣的物品とは、金銀絹帛などの、軽貨とよばれる物品です。一方、穀物系は、そもそも大運河においては、軽貨と同様に輸送が可能で、不足の被害はとくに穀物系になっていたとされています…。安史の乱による緊急輸送により、軽貨に偏っていた面もありますが、同時にまた揚子江・漢江の漕運能力が弱くて軽貨に偏らざるを得なかったことがあったというのです…。




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