唐の時代における、「坊」の誕生と発達に
ついて…。
唐の時代、律令制時代において、中国の王朝域内は、末端機関としての県があり、そのうえに、若干の県を統括する州があり、州の統治都市は、その管内の最重要地にある県の統治都市に併設されていたとされています…。
以上の統治都市は大都市であったと考えてよく、もちろん、こまかく見れば、この統治都市以外にも都市があり、かつ中国の歴史のながれとともにその数は増えていったようですが、おおざっぱにみて、この、いくつかの県を統括する統治都市(州県治とよばれるようです…)が、おもな都市だと考えてよさそうです…。
この州県治は原則としてその周囲に城壁をめぐらすこととなっており、すなわちおもな都市は城邑であったと把握できます。邑はもともと古代中国の都市国家的な集住地を意味して、城邑と言った場合は、邑の各都市機能をまるごと城壁でまもったものと考えてよいでしょう…。
州県治のなかは多数の大街が縦横にはしっており、この大街に囲まれた方形の区域が多数形成され、唐の時代ではこの方形の区域を、「坊」とよび、「坊」のまわりには坊壁がめぐらされていました。
坊壁には坊内に出入りするための坊門が二つ以上設けられていました。坊壁をとおして直接大街に出入り口を作ることができたのは、高級官僚だけで、一般住民はかならず坊門を経由して出入りしなければなりませんでした。坊門は、夜明けとともに開かれ、日没とともに閉まり、住民は夜間に坊のそとへ出ることは禁じられていました。ただし坊内での夜間往来には制約はなかったそうです。こうした厳しい坊制は治安本位に生じたものでしたが、夜間の活動を封ぜられた城民の生活はすこぶる窮屈だったそうです…。
つまり、古代からの流れの中で、邑、さらにはそれに城壁をともなった城邑、さらに、この記事でのべた、おおきな城邑のなかを格子状にして、方形の諸区域を、「坊」として、夜明けから日没までの開門と、夜間の外出を禁じた、中国古来の大都市形態が、唐の時代になって初めて誕生したと考えることが出来るのです。たとえば、商業地域に特化した坊は、「市」と表現されますが、市が誕生したのも、唐王朝の時代です…。とくに首都長安の坊城システムは、いままでなんどもさまざまな形で取り上げられてきており、その大規模な市における商業研究もなんどもテーマになっていると考えてよいでしょう…。
中国の都市発展論の中で、唐王朝の時期における、坊城システムは、それ以降の中国都市論の基盤となるシステムであったと、再確認していいでしょう。(引用 日野開三郎 東洋史学論集第七巻 宋代の貨幣と金融(下), 第二部 唐宋時代の商人組合「行」の研究, 第一章 唐・律令租調庸時代の行, Ⅰ 唐・律令制時代における城・坊・市制度の概観)
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