中世テオクラシーの誕生

序章 中世テオクラシーの芽生え

 中世ヨーロッパ社会権力論における教会勢力のあり方は、世界史におけるどのほかの地域とも違った、独特で強力なものとして理解されてきました。中世においては、キリスト教が民衆にいたるまでの信仰の対象とされましたが、そこには、世俗の軍事的、所領的支配者としての公伯貴族層と、もう一つ、宗教的、精神的支配者としての教会勢力が存在しました。

 フランク王国期から、西欧には、修道院が次々と建設され、キリスト教の知のネットワークのつながりは、緩やかに広がっていきました。それとともに、教界の最高権威としてのヴァチカン教皇と、各修道会とのネットワークが生まれ、また、各地の修道院周辺の農民との宗教的・物的交流も始まりました。

     第一章 中世テオクラシーの組織的形成 

 中世テオクラシーの内部構造とは、端的に言って、ヴァチカンを中心としたカトリック教会組織とその知のネットワーク、ならびに、教会組織が保有する莫大な資産が、世俗権力に対してどのような影響力をもつかという点に存在します。世俗のヒエラルヒーに対して、テオクラシーは、おのおののヒエラルヒー階層に、横から近似するようなかたちで存在します。ただ、欧州の場合は、ヴァチカンを頂点としたカトリック教会は、グローバルでした。一般庶民の信仰の対象とされ、中世神学によって理論学化もされた信仰体制は、西欧ならびにカトリック派が影響を及ぼすすべての地域にグローバルに形成されていました。在地の修道士は、日々の信仰生活と神学研究、日々の生ける糧の生成を同時に行なっていましたが、これとは別に、欧州にグローバルな教会資産は、教皇領を頂点に組織化されていました。

第二章 中世テオクラシーの成熟期と

第一回十字軍 

中世西欧教会勢力の頂点と位置付けられるのが、有名な十字軍です。第1回十字軍は、キリスト教世界にとって記念すべき出来事であり、このあとも教会勢力は拡大を続けましたが、一つの節目として第1回十字軍を挙げる者はおおいです。すでにその前から、何回かの宗教会議を通じて、カトリック教会はその社会的団結を強めていきました。

 教皇ウルバヌスは、ビザンツ皇帝からの援助要請を受けて十字軍を発足させましたが、とくにフランスからの参加者が多く、聖地エルサレムへの巡礼とも重なったような、大規模な遠征行となりました…。十字軍参加の観点からは、当時のイギリス、フランス、神聖ローマ帝国などの諸王国の国家首長の、それぞれの思惑からの参動が存在しました。そもそもウルバヌスの超国家的な力がなければ、十字軍の軍事力は形成できません。それまでの教会の力の蓄積がなせる業ですが、フランス王国内の軍事力が主体となったことから、当時のフランス王国と教皇との関連性が察せられます。

 第三章 インノケンティウス3世の登場 

 インノケンティウス3世は、第1回十字軍が成功裏に幕を閉じ、キリスト教世界が大規模化をゆっくりと進めていたさなかに、教皇位についた人物として有名です。かれは、西欧諸国王への介入を進め、カトリック権力を、如何なる世俗の権威よりも、精神的・宗教的に、霊的に人民を統治するものとして、軍事的・世俗的に統治する世俗権力よりも、一段高いものとして位置付けた教皇として名高いと考えられます…。

 インノケンティウス3世が行なった宗教政治は、12 世紀終わりから 13 世紀にかけての欧州諸王国の各王権にたいする、カトリック教会の権力的優位性をあらわにしました。イギリスとフランスという二大勢力にたいする彼の政治行為は、教皇権威が明らかに突出して高位だと歴史家に確認させています。





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