イタリア戦争時代の欧州…。(その一)
中世末の普遍的なキリスト教世界は、領域国家の形成によってしだいに解体しつつありましたが、なお未熟とはいえ、ナショナルな性格をもちはじめたフランスその他の諸国家間の闘争の場となったのが、小国に分裂し、諸王朝の伝統的権利が錯綜するイタリア半島でした。この記事では、1494 ~ 1559 年まで、65 年間におよぶ国際紛争であるイタリア戦争について、その前半期といえる、フランスを中心とした列強の離合集散による、イタリアを舞台とした戦闘について考えてみたいと思います。(引用:世界歴史体系フランス史2 山川出版社 1996, 第二章 ルネサンスと宗教改革 2 イタリア戦争と国際関係 石引正志氏…)
イタリア戦争は、1519 年のカール5世の皇帝就任の前後で二期にわけられます…。前期は 1494 ~ 1516 年までで、イタリアでの覇権をもとめるフランスを中心に、諸列強が離合集散をくりかえしつつ、おもにイタリアを舞台としておこなわれました…。後期は、皇帝選挙の結果、スペイン、ネーデルラント、ドイツをあわせもったハプスブルク家とこれに脅威をかんじたフランスのヴァロワ家がイタリアだけでなくすべての国境で対決することになります。休戦、和議をはさみつつ、前期に6次、後期に5次にわたる戦争が行なわれました…。この記事では、1516 年までの戦闘のいきさつについて考えてみたいと思います…。
イタリア戦争をはじめたフランス王シャルル8世は、騎士道的理想にはぐくまれ大きな偉業を打ち立てんとして、ナポリ王国を征服し、そこから十字軍におもむくとの野望を抱いたとされます。ナポリ王国への進出要求の口実としてもちだされたのが、フランス王家と血縁関係にあるアンジュー家の権利です…。13 世紀にアンジュー家の人物がナポリ国王に任ぜられアンジュー朝がひらかれましたが、1435 年王統がとだえ、アラゴン家のシチリア王がナポリを征服していました。アンジュー家の相続人は、1481 年、遺言でフランス王ルイ11世にフランス王国内のアンジューとプロヴァンスだけでなくナポリ王国への権利をも譲渡しました。それなので、シャルル8世は正当な継承権はじぶんにあるという口実を主張したのです…。さらにイタリアへの介入は、イタリアの諸派から要請されていたようです…。
1494 年、フランス王はアルプスを越え、わずかの抵抗があったものの、ナポリを占領します。しかし、おりから蜂起していたナポリの民衆は当初はシャルルを歓呼の声でむかえましたが、侵略的側面が強まるにつれ、反フランス感情があらわれました。フランスの侵入が現実的になると、それまで対立していたイタリアの諸勢力、とくにヴェネツィアと教皇は、1495 年 3 月、教皇、皇帝、スペイン、イタリア諸都市からなるヴェネツィア同盟をつくりあげ、背後を絶たれることを恐れたシャルル8世はただちに引き上げることになります…。その後シャルル8世は事故がもとで不慮の死をとげ、オルレアン家のルイがルイ12世として王位につきました…。
ルイ12世は、フランス王としてのナポリ王の権利に加えて、オルレアン公としてミラノへの権利を主張しました。彼の祖母はヴィスコンティ家最後のミラノ公の姉だったので、現在公位にあるスフォルツァ家は簒奪者であり、自分が正統な公位継承者であるとして、王位につくや、「フランス王にしてミラノ公」と名のっていたようです…。ボルジア家出身の教皇アレクサンデル6世との接近がはかられました。ルイ12世がブルターニュを王国に確保するために、その相続者である前王シャルル8世の寡婦アンヌ公妃との結婚を望み、12 年間妻であったルイ11世の娘ジャンヌとの結婚を解消する必要がありました。それができるのは教皇だけで、交渉ののち教皇の許可勅書がもたらされました…。
さらに、王のもっとも有力な顧問、ジョルジュ・ダンボワーズの巧みな外交により、スペイン、イギリス、ドイツ、スイス、デンマークなどヨーロッパのほとんど全部がフランスに味方することになります…。こうして 1499 年 9 月、フランス軍はミラノにはいります。さらにルイ12 世はナポリ王国征服を考え、はじめはアラゴン王と条約を結び、ナポリ王国を両者で分割することに決めましたが、1502 年、分割の境界をめぐって両者は対立し、1502 年半ばから戦闘にはいります。1504 年休戦がなり、戦闘に敗れたフランスは最終的にナポリを失い、以後2世紀におよぶスペインの支配が確定しました…。その後もルイ12世は北イタリアに侵攻を考え、1509 年ふたたびアルプスを越えますが、フランスに対し「神聖同盟」をつくった教皇ユリウス2世と 1512 年から対立することになります…。戦闘ではルイ12世の甥が教皇軍をつぎつぎ破っていましたが、ラヴェンナの戦いで戦死…。その後はスイス軍のフランス侵入もあり、1513 年 9 月休戦条約が結ばれ、フランスはミラノも蜂起します。目立った戦果もなく、ルイ12世は 1515 年 1 月死去しました…。
次の王フランソワ1世は再度アルプスを越え、1515 年 9 月、戦闘に勝利しミラノをとりもどします…。この勝利を十分に利用し、ボローニャで教皇レオ10世と会談し、「ボローニャの政教協約(コンコルダト)」を成立させます。皇帝・スイスとも和解をしました…。つかの間の平和が訪れます…。
上記イタリア戦争時代の欧州その一では、そもそもフランス王権が、その勢力拡張を狙って起こしたイタリア戦争の、前半期について考えてみました…。フランス王フランソワ1世は、上記の時点で、ミラノを確保しています…。上記イタリア戦争の前半期では、戦場はおもにイタリア半島内部で、フランスを中心に周辺諸国が関与する形ですすんでいます…。欧州ナショナリズムを考えるときに、当時欧州で最強の国だったフランスが、どのようにイタリアに興味を示し、軍事行動に出たのか、それにたいする周辺諸勢力の動きはどうだったのかが分かります。中世末の普遍的なキリスト教世界のイメージは薄れ、フランス王は、ローマ教皇とかなり対等な条件で、イタリア戦争前半の戦闘をすすめていっているように、考えられます…。
別記事、イタリア戦争時代の欧州(その二)では、これ以降のイタリア戦争の推移について、考えていきましょう…。
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