アンシァン・レジーム期の考察(その二)

     フランスにおけるアンシァン・レジーム期に

     ついての考察…。(その二)

 17 世紀の危機の中で、フランスが農業・手工業ともに不振に落ち込み、人口減少も生じていた時代、ルイ14世の宰相コルベールは、その地位につきました。コルベールは外国の工業製品、とりわけ毛織物にたいする輸入関税の大幅な引き上げをつうじて、国内市場を自国の製品のために確保すると同時に、国家の強力な介入によってフランスの工業生産と貿易のすみやかな回復とあらたな発展を実現しようとしました…。(引用:世界歴史体系フランス史2 山川出版社 1996, 第一章 アンシァン・レジームの経済と社会…服部春彦氏…)

 コルベールの工業育成政策の基軸をなしたのは、特権マニュファクチュア制であり、絶対王政の軍事力を支える鉱山・精錬業と武器の製造、つづれ織、レース、錦、ヴェネツィア風ガラスなど奢侈品の生産、そしてとりわけ上質毛織物工業の振興を目的として、国家の資金援助と独占付与による特権企業がつぎつぎに設立されました。また、コルベールは産業規制の再編強化もおこない、1669 年、都市ギルドの規約をもとに毛織物や絹織物の製造にかんする詳細な法規を定め、特権企業以外の一般の生産者にも遵守させることによって、フランス製品の品質向上と規格統一を推し進めようとしました。

 17 世紀前半に建設された北アメリカ、西インド、西アフリカの各植民地は、1660 年代以降コルベールの貿易・植民政策に援護されてあらたな発展を遂げることになります。西インド諸島では、植民開始以来タバコ、砂糖、カカオ、綿花などの輸出用熱帯用品の生産がおこなわれていましたが、1650 年代から奴隷制プランテーション方式による砂糖の生産がめざましく発展しました。コルベールはこのフランス本土-西インド間貿易からオランダ人など外国人を排除し、フランス人による植民地貿易独占体制(いわゆる排他体制)を樹立しようとしましたが、1683 年までにほぼ達成され、毎年 200 隻をこえるフランスの貿易船が本国のおもだった港から西インドへおもむくようになりました。

 西インドは 17 世紀末まで、オランダ人など外国商人による奴隷貿易におおきく依存しなければなりませんでした。しかし、1670 年代以降アフリカ西海岸においてあらたな貿易拠点を獲得しつつ、西インド植民地にたいして年平均 2000 人近い奴隷を供給するようになりました…。

 フランス経済は、1630 年代から 18 世紀初頭まで長期にわたる不況を経験しました。フランスの総人口と農業・工業の生産量は、短期的には増減を繰り返しながらも、この期間を通じてほとんど増加しておらず、また穀物価格をはじめとする諸物価も 1660 年以降、明白な長期的下落傾向を示しました。周期的に起こった凶作=飢饉と穀物価格の暴騰、さらにそれにともなう工業生産の危機は、民衆の多くを貧困に追い込みました…。18 世紀初頭になると、フランスは産業機能において、イギリスにはっきり遅れをとるようになります…。

 さて、英仏間の格差を埋めるまでには至りませんでしたが、1630 ~ 40 年ころから長期的不況の局面にあったフランス経済は、1730 年代ころからふたたび長期的好況の局面をむかえることになりました…。

 スコットランド出身の銀行家ジョン・ローが経済再建に取り組みました。「ローのシステム」と呼ばれる彼の政策は、王立銀行を設立し大量の銀行券を発行することによって経済危機の原因をなす貨幣の不足を解消すると同時に、西方会社、ついてインド会社という植民地貿易会社を設立し、流出した銀行券をその株式として吸収しようとするものでした。そのさいローは、銀行券によって国家債務を償還するいっぽう、インド会社などの株式募集にあたって銀行券以外に国債による払い込みをも認めて、国家にたいする債権者を貿易会社の株主に変えようとしました。しかし、1719 年末におこった株式ブームは翌年春にははやくも崩壊し、ローのシステムは失敗におわりました。しかしそれがインフレ―ションをつうじて広範な生産的諸階級の債務を軽減し、経済発展を刺戟したことは見逃せないとされます。

 ローの失脚後、財務総監ドダンのもとで強力なデフレ政策が実施され、物価、賃金の引き下げのために貨幣の名目価値がくりかえし引き下げられました。しかし深刻な不況をまねいたため、1726 年にいたって貨幣の名目価値引き上げへの政策転換が行われ、同年 5 月 26 日の王令により、ルイ金貨は 24 リーヴル、エキュ銀貨は 6 リーヴル、一リーヴルは銀 4.505 グラムに固定され、この後フランスの貨幣は、第一次大戦まで安定した価値を持ち続けることになります…。

 小麦をはじめとする農産物の価格は、短期の循環的変動を繰り返しながら、長期的には1733 年以降明確な上昇カーブを描くようです。1785 ~ 89 年の農産物の平均価格を 1726 ~ 41 年のそれと比較すると、この間の騰貴率は 66% に達するようです。18 世紀における物価変動にかんしては、物価の上昇率と賃金、小作料、利潤という主要な社会的収入の上昇率との関係の問題があるようです。名目賃金が 22 % の上昇なのにたいし、小作料は 80 ~ 100 % の上昇で、都市労働者や貧農大衆には不利に働いたようです。

以上のような一連の経済動向の上で、フランス革命勃発へと至るのが、アンシァン・レジーム期のすがただと捉えてよいでしょう。すなわち、18 世紀の長期的好況は、大土地所有者や、都市ブルジョワジーには有利に働き、社会的弱者といえる、都市労働者や貧農大衆には、不利な動きをしたと把握してよさそうです…。17 世紀の危機から回復したフランス産業が、健常なかたちで富を分配するようであれば、革命は起こらなかったのかもしれません。しかし、服部氏の研究によると、18 世紀の回復が生じても、貧富の差の拡大の問題が生じたようです…。現在の経済にも、このような問題は助言を与えるかもしれません。物価の上昇に、労働者の賃金の上昇が追い付かず、結果王国崩壊の結末を招いてしまいました…。

 問題の要点としては、17 世紀の危機の後回復したフランス経済の中で、物価急上昇から生じた貧富の拡大が、王国崩壊の原因と把握できることです…。18 世紀の長期的好況が、もし健常なかたちで富を分配していたのであれば、フランス王国は持ちこたえたかもしれないという史実は、現在の経済にも大きく助言を与えるでしょう…。


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