フランスにおけるアンシァン・レジーム期
についての考察…。(その一)
アンシァン・レジーム期とは、フランス史における 16 世紀から 18 世紀までの3世紀間をさします。のちの革命期において、革命勢力が攻撃目標とした君主専制的な統治形態や、貴族制にたいする呼び名で、19 世紀半ば、トクヴィルの著作において、はじめて学問的な考察の対象とされたようです。この記事では、17 世紀における農業・手工業的な危機の時代までのアンシァン・レジーム期について考察しようかと思います。アンシァン・レジーム期の前半、大体 1640 年代までのフランスにおける社会の流れのありようと、農業・手工業の実在把握をもとに、絶対王政期のフランスの社会の考察が出来ればと、考えています…。(引用:世界歴史体系フランス史2 山川出版社 1996, 第一章 アンシァン・レジームの経済と社会…服部晴彦氏)
この時代は、絶対王政の時代とされていますが、フランスは 17 , 18 世紀に農・工業生産や海外貿易を発展させ、植民地建設を進めることによって、形成期の資本主義的世界体制の内部にあってイギリス・オランダ両国とともに中核国家の地位を占め続けたとされます。絶対王政は単純に封建国家と規定したりはできないようです。
この時期のフランスの社会構造をしめすうえで重要な概念に、「社団」があります。
社団とは、人びとの自然発生的な結合関係からうまれた社会集団や共同の利益のために組織された団体にたいして、国王がさまざまな特権を与えて法人格を保証したものであり、本来は都市の商人や手工業者のギルド、貿易会社、金融会社、さまざまなレベルの官僚団体、弁護士・医師・薬剤師の組合、大学、アカデミーなどの職能的団体を意味しましたが、現在では村落共同体、教区、都市、領主所領、さらには固有の慣習、伝統、特権をもつ州(プロヴァンス)のような地域的団体をも社団とみなすようになっているようです…。アンシァン・レジーム期においては、王権は国民ひとりひとりを直接的に把握していたのではなく、みずからと国民とのあいだに介在する中間団体としての社団を媒介とすることによってはじめて、その統治を実現することができたようです…。
アンシァン・レジーム下においてフランス国家の財政支出は、官僚機構の肥大化や宮廷生活における奢侈の増大、そしてとりわけたびかさなる対外戦争のために膨張をつづけました。国王が王領からの収入の不足を理由にさまざまな租税を臨時に徴収するようになり、常態化しました。16 世紀には、王領収入はわずかな部分を占めるにすぎず、国庫収入の基幹部分は直接税であるタイユと、飲料消費税(エード)、塩税(ガベル)、関税(トレート)などの間接税とによって構成されていたようです。タイユは、実際には聖職者、貴族のほか多くの都市も免除を受け、平民の中でも特に農民層の負担するところとなっていました。16 世紀後半にはタイユが間接税の約三倍の額で、歳入全体の 64% を占めていました。17 世紀に入ると、タイユ自体は増大し続けましたが、間接税の徴収額が急テンポで増加したために、コルベールが国政を担当した 1661 ~ 83 年には、間接税収入が直接税収入を大幅に上回るようになったとされます…。
次に経済の面では、革命のすぐ前の時期においても、農業の生産総額は、工業をふくむ物的総生産の 60% で、また人口の 60% が農民であったとされます。農業技術の改良はきわめて緩慢で、生産性は低位にとどまっていたとされます。農業生産の主力は基本的食糧たる主穀類におかれ、食肉、乳製品、野菜、果物などの生産は副次的であったとされます。零細な経営のために自家消費の側面が強かったとされます。輸送能力は低く、凶作の際も遠方輸送が困難で、農産物市場においてはげしい価格変動が生じざるを得なかったそうです。工業生産の特徴は、羊毛・麻・絹などの繊維工業を筆頭に、被服、農産物加工、金物、小間物製造などの消費財工業が支配的比重を占める点にありました。石炭業や製鉄業は、ぜんたいの割合では消費財工業にはおよびませんでした。小規模な手工業的作業所の圧倒的優越がありました。
近年の人口研究によると、フランスの総人口は 14 世紀初頭に 1600 万~ 1800 万人でしたが、百年戦争中減少し、1430 年には 1100 万人に減少しました。しかし戦後急増に転じ、1500 年にはほぼ戦前の水準にまで回復し、ついで 1560 年には 2000 万人に達したようです。この急成長について、専門家ル・ロワ・ラデュリは、この時期における死亡率の相対的低さ、初婚年齢の低下、出産率の高さの3つをあげています。穀物の豊富、飢饉の欠如、高賃金に象徴される下層階級の栄養状態の改善があった様です…。
フランスの人口と経済活動は、同国が 30 年戦争に直接参加する 1635 年ごろからふたたび縮小あるいは停滞をはじめ、ほかのヨーロッパ諸国と同様に 17 世紀の危機にはいります。とくに 1693 ~ 94 年の大飢饉の影響が大きかったようです。穀物の生産量は、教会十分の一税および物納小作料の水準から判断すると、地域によって 1630 年代または 1640 年代からめだって低下し、1661 ~ 62 年の飢饉まで低迷していたようです。工業生産の動向をみると、アミアン、ボーヴェ、トロワ、ランスなどでは、毛織物の生産量は稼働織機台数の変動からみるかぎり、いずれも 1630 年ころから頭打ちになり、ついで 40 年代のうちに急落したようです。凶作・飢饉の影響と同時に、国際競争の激化による輸出の減退も反映しているようです。このような中で、ルイ14世の宰相コルベールは、フランスの経済政策を指導する地位につきました…。1660 年代の初めです。その時点で、フランスの経済のおおくのセクターは 17 世紀の危機に直面しており、のちにコルベルティズムの名でよばれるようになった彼の経済政策は、なによりもまずこの危機への対応策という性格をもっていました…。別記事、アンシァン・レジーム期の考察(その二)では、上記以降のアンシァン・レジーム期の動向について考えてみたいと思います…。
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